はじめに
ブログを見にきてくださり、ありがとうございます。
私は公務員家系で生まれ育った、ごく普通の「小学校の先生」でした。
親、祖父母、曾祖父母も公務員。
そんな私は今フリーランスへの道を歩み始めています。
「公務員」と対局にある「フリーランス」。
このブログは、安定した公務員という立場を手放し、フリーランスにチャレンジする道を選んだ私の記録でもあります。
私の基本情報
- 名前
ゆう - 職業
元小学校の先生 - 好きなこと
旅行(国内・海外)、異文化交流、温泉、グルメ - 家族
夫と3ヶ月の息子(2024年2月時点)
私の生い立ち
幼少期
関西の田舎で、高校数学教師の父と専業主婦の母、兄との4人家族。
大好きな祖父母からも愛情をたっぷりもらい、兄とも仲が良くのびのび育ちました。とっても優しいけれど教育熱心な母の元、やりたい習い事は全部させてもらえました。
嫌なことを無理にさせられるといったことはなく、私や兄が「やりたい!」と言ったことを叶えてもらっていました。
金銭的に余裕があった訳ではない我が家で、それが可能だった理由、それは母方の祖父母からの支援でした。
「孫の教育にお金を使ってほしい」という思いが強かった祖父母は、私や兄が勉強や習い事を頑張っている姿を見て心から喜んでくれました。
無償の愛を注いでくれたこの祖父母の存在はとても大きく、私も兄も祖父母が大好きでした。
お盆やお正月は、祖父母に会える日までのカウントダウンをしながら、抑えきれないワクワク感に包まれていました。
小学校高学年には、通っていた英会話教室で初海外へ。
ホームステイも経験させてもらえ、英語が好きになりました。
小学校時代は明るく活発で、クラスでは学級委員タイプだったと思います。
この頃、愛溢れる素敵な先生と出会い、憧れの気持ちから「小学校の先生になりたい」と思うようになりました。
交友関係に違和感を感じ始める
小学校6年生頃になると、女子の人間関係の難しさを感じるようになりました。
「真面目に取り組むこと」があまり良しとされない雰囲気にしんどさを感じることが増えました。
中学校に入ると、陰口やいじめが横行し、ますます女子の人間関係がしんどくなりました。
最初の頃は、どの子とも上手くやっていけるように合わせていたものの、中1の秋頃には諦めがつき、適当に距離をとるようになりました。
両親や祖父母のお陰で勉強が苦ではなかったため、学年トップの成績を維持することに集中するように。
「自分には勉強(集中するもの)があるからいいや」という思考で、未来のことだけを考え、我が道を行くようになりました。
そのお陰で人間関係のいざこざに巻き込まれることもなくなり、自分は勉強に支えられていたと今振り返っても思います。
とにかく「高校に入るまでの我慢だ」と言い聞かせて3年間を過ごしました。
最高の青春を過ごした高校生活
地元の進学校に入学し、あまりの環境の変化に驚きました。とにかく「平和」。
素晴らしい友達に恵まれ、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。こんな毎日がずっと続けばいいのにと思っていました。
高校の友達とは今でも男女共に仲が良く、みんなで旅行したり、子連れで集まったりする仲です。
大学受験
家庭の経済状況にゆとりがないことはなんとなく分かっていたので、高校1年生の時点で志望を国公立のみに限定することにしていました。
兄も国立大学に進学したこと、そして周りの友達にも私立志望の子はほぼいなかったので、それに関しては特別感はありませんでした。
親から
「私立は無理だよ」
「浪人したらお金がかかる」
というような言葉はかけられたことがありませんでした
むしろ浪人した時に備えて、こっそり人気の予備校と寮を仮予約しておいてくれたことを後で知りました。
しかし、お金に余裕がない中で私達の教育を第一優先してくれる両親に、これ以上迷惑はかけられない、絶対に浪人せず現役で志望校に入らなければと必死でした。
その甲斐あってか、無事現役で志望校に合格することができ、ほっとしたのを覚えています。
出会いに溢れた大学生活
関東の大学だったので、関西の田舎を出て、初めて一人暮らしをすることに。
親はセキュリティ面を気にして、オートロックのついた築浅の物件を選んでくれました。
親にとって、大学の学費以上に家賃と生活費の仕送りの負担が大きかったことに気付いたのは、自身が社会に出てからでした。
私が生まれたときから、大学のためにとコツコツ教育資金を貯めてくれた両親や祖父母の支援のお陰で、奨学金を借りることもなく、4年間を過ごすことができました。
北海道から沖縄まで、全国から人が集まった環境はとても新鮮でした。
様々な価値観や考え方をもつ人達と出会い、課題に追われながらも、サークル活動や旅行など、大学生活を満喫しました。
教員採用試験~卒業後の選択~
大学4年生の春、今住んでいる大学のエリアの教師になるか、地元に帰って教師をするかの選択に迫られました。
まずは試験に受からないことには悩んでいても仕方ないと、両方の試験を受けることに。
両方の自治体で合格を手にした私は悩みに悩み、大学のエリアで教師になる道を選んでしました。
こちらの方が、研修制度が充実していたこと、また現場で働きながら大学の研究室にも顔を出し、実践したいことがあったからです。
この時、本当は地元に帰ってきてほしかったと思われる両親は、帰ってきてほしいとは絶対に言いませんでした。
地元の教育委員会に辞退の連絡を入れた後、親のことを思うと本当にこれで良かったのかという思いでいっぱいになり、涙が止まりませんでした。
教員生活の始まり
3月に大学を卒業し、4月から市内の公立小学校に担任として配属されました。
昨日まで大学生だった私にとって、突然の「学級担任」というポジションは、かなり負担の大きいものでした。
中学校や高校であれば、副担任や学年付きから始まるものの、小学校であれば事前の研修期間はなく、いきなり担任として一人教壇に立つことになります。
毎日毎日終わりの見えない山積みの仕事。先生達の対立や不仲に巻き込まれ、板挟みの日々
「一番若い女の先生」というポジションを私に取られた先輩からの嫌がらせや、男性教諭からのセクハラもありました。
中学卒業以来、人間関係に悩んでいなかった私は中学時代を思い出し、またこの環境に戻ってしまったのかととてもショックを受けました。
中学時代は、苦手な人達と「距離を取る」という方法で時間を過ごしてきましたが、仕事となるとそれができない壁にぶつかりました。
異常な世界に慣れていく
1年目の夏、父方の祖母が他界しました。母方の祖父母ほど関わりは濃くなかったものの、いろんな思い出がありました。
出勤前の朝5時頃に親から連絡を受け、お通夜や葬儀のことがあるので早く管理職に伝えなければと思い、教務主任が出勤してくるのを待ってすぐに伝えました。
「あなた、まさか帰ろうと思ってないわよね?」
冷たい表情とその言葉が今でも忘れられません。
「明日から個人面談があるでしょう。もうすでに面談の日程を組んでいるのよ。」
「変更するなんてなったら、あなたのクラスの保護者全員に変更してもらわなきゃいけなくなるんだから。そんなことできないわよね。」
冷たい声でそう言われて
「帰ろうとは思っていないです。」
と咄嗟に答えてしまった私に、教務主任は「当然でしょう」という顔をして去っていきました。
「何が起きたのか分からない」
「社会人ってこういうことなのか」
「そうか仕事ってこういうことなんだ」
段々感覚がマヒしていく自分がいました。
結局私は地元に帰れず、祖母とのお別れをすることは叶いませんでした。
今でもその時の光景を鮮明に覚えているほど、ショックな出来事でした。
納得ができるまでやってみよう
そんな環境だったため、
「もう辞めたい」
「3月まで頑張ったら辞めよう」
毎日のようにそう思っていました。
それでも続けていたのは、子どもがかわいかったから。
労働環境は最悪でしたが、担任するクラスの子ども達が本当にかわいく、大好きでした。
教室に行けば「先生!」とキラキラした目で話しかけてくれる子ども達。
「今はまだこの仕事のことが分かったとはいえない」
「何事も最初はしんどいからまだその時期なだけなのかもしれない」
そう思いました。
そこで、自分の中で「納得ができたら辞めよう」そう決めました。
時間もお金もない、ひたすら働く日々
数年後、人事異動で市内の違う小学校に異動になりました。異動した先は研究校。
さらに忙しくなりそうと思った予想は大正解でした。
朝4時50分の始発で出勤、5時半には学校で仕事を始めていました。
朝7時に朝練で登校してくる子ども達を迎え入れるために、6時半から体育館やグランドの準備。
7時過ぎから一緒に体を動かし、8時からクラスでの1日がスタート。
授業はほぼ全て担任一人で行うため、休憩時間は基本ありません。
給食は5分で食べ、子ども達が食べている間に保護者からの連絡帳の返事を書く。
16時に子ども達が下校したら5分後には打ち合わせが始まり、初めて一息つくのは19時頃。
そこから学年やクラスの仕事が始まり、気付けば21時になっているのが当たり前でした。
帰宅すると22時を過ぎていて、倒れ込むように寝ていました。
当時の定時は8時から16時30分。
しかし定時など無いも同然で、毎日のように16時間程働いていました。
残業代は出ないため、これだけ働いても金銭的にゆとりはなく、時間もお金もない日々。
残業時間は月140時間を超えていましたが、毎月提出する在校時間報告では、医師との面談義務の生じる100時間を超えてつけないよう管理職から言われていました。
大切にしたい人達との時間を優先できない生活
この頃、ちょうど1回目の結婚ラッシュ。
しかし、関西で行われる大切な高校時代の友達の結婚式には全く参列できませんでした。
招待状をもらった数ヶ月後が、休日仕事に行かなくても業務がまわっている状況かどうかが分からず、出席の返事ができなかったのです。
案の定、結婚式当日も学校で仕事をしていました。
LINEで届く友達の幸せそうな写真を見て、行きたかったなと悲しく思う反面、その日を生きることに精一杯だった私は
「でも行っていれば来週の退勤は終電だったかもしれない」
と休日の内に仕事を進められたことに安堵感さえを感じていました。
また同じ頃、入院中だった母方の祖父が誤嚥性肺炎に。
先は長くないと医師から告げられました。
仕事が落ち着いたタイミングで一度はなんとか会いに行けたものの、やはり思うように身動きが取れず、最期は看取ることができませんでした。
「あれほど大切にしてもらったのに」
「もっと感謝の気持ちを伝えたかった」
「もっと会いに行ってあげたかった」
悲しい気持ちが溢れ、葬儀で息ができなくなる程泣き腫らしました。
しかし
「仕事なんだから仕方ない」
「社会人とはこういうものなんだ」
と、これは働いている以上どうしようもないことなんだと、思っている自分がいました。
ここは私の場所じゃない
今振り返るととんでもない環境ですが、それに慣れきっていた自分もいました。大きな仕事も任されるようになり、自分なりの学級経営の形ができて、やりがいを感じていました。
しかし、労働環境に愚痴の止まらない先生達の会話を聞きながら、「文句を言っていても変わらない、嫌であれば自分で環境を変える必要があるのでは」と思い始めていました。
そんな生活を続けていた冬のある日、突然出勤のために乗った電車で涙が止まらなくなりました。最寄り駅に着いたのに足がどうしても動かない。もう限界だったのだと思います。
ちょうどその頃、私が取りまとめをする仕事でベテランの先生の大きなミスが発覚しました。私の元に走ってきた先生から出たのは謝罪ではなく、私を責め立てる言葉でした。
呆気にとられ何も言えない私に、ひたすらヒステリックに怒鳴り続ける先生。
当時は訳が分からなかったのですが、自分の大きなミスを認めたくなかったから、私のせいにすることで逃れようとしたんだと思います。
そこから職員室でそのことについて大声で騒がれる日が続いたため、職員室を避け、放課後以降も自分の教室で仕事をするようになりました。
他の先生が帰るのを待って職員室に行くようにしたため、22時頃まで学校で働く日々。
当時担任していたのは6年生。卒業式まであと1ヶ月半でした。
「ストン」と自分の中で何かが落ちた感覚がありました。
「この子たちと一緒に卒業する」
そう決めた翌日、誰にも相談せずに退職届を出しました。
「もったいない」
「もう少し考えてみないか」
何を言われても決断に揺らぎはありませんでした。
来年度、自分がここで働く未来を想像した時に、全くワクワクしなかったのです。
自分の中で「もうやりきった」とハッキリ思いました。
大好きな子ども達との日々は本当に幸せでしたし、かけがえのない時間を一緒に過ごさせてもらいました。
新しいことを学ぶ時のあのキラキラした目が忘れられません。
子ども達にも、協力してくださった保護者の方々にも感謝の気持ちでいっぱいです。
6年間苦しかったけれど、教師以外の道を選んでいればと思うこともあったけれど、そうしていればこの子たちと出会えなかった、そう思うと教師になって良かったと思えます。
ずっとやりたかったこと、それは留学!
退職した私は「もし今死んだら何を後悔するだろう」と考えました。
その時真っ先に頭に浮かんだのが「留学」でした。
子どもの頃のホームステイ経験から、海外や異文化に興味をもち、大学生の頃から何度も海外旅行に行っていました。
「留学して英語を学びたい」とずっと思っていたものの、これまで実現できていなかったのです。
留学すると決めたその日から都内のエージェントをひたすら周り、自分の納得のいくプラン・金額でサポートしてくれるエージェントと契約を結びました。
留学したいと思い立った10日後には留学金を送金。
準備を整え渡航しました。
留学先での生活は本当に毎日楽しく充実しており、「勉強だけに集中して時間を使えるなんて幸せすぎる!」と感動していました。
有難いことに本当に人に恵まれ、いろんな国から来たクラスメイトと最高に幸せな時間を過ごしました。
この時
「自分の人生は自分次第で変えられる」
「これからの人生は、価値のあることに時間やお金を使いたい」
という気持ちが強くなりました。
今後の働き方について考える
留学先から一時帰国していた間に、まさかのコロナが流行。
予定していたプランが崩れ、再渡航を断念せざるを得ない状況になりました。
実家に帰った私は、地元の小学校から仕事の依頼をいただき、再び学校に勤務することになりました。
そこは田舎の学校で、のんびりした雰囲気に温かい先生達。
今までの教員生活のイメージを覆えされました。
「ここなら教師を続けられるのでは?」そう思いましたが、小学校の先生という仕事に一度疲れ切ってしまった私には、もう一生の仕事にしたいと思う気持ちはなくなっていました。
その翌年に結婚。地元を離れ地方都市に引っ越しました。
新生活と共に今後の働き方について考える日々。
専業主婦の母の元で育った私は、将来子どもができた時「家にいるお母さん」になりたいとずっと思っていたのです。
しかし、両親が私にそうしてくれたように、自分の子どもがやりたいと思ったことをさせてあげられる親でいたい。
それを叶えるのであればお金が必要。
つまり、「在宅で収入を得られる仕事」をすることが理想でした。
また、「孫にお金がかかるから」「老後迷惑をかけないように」と今もお金の心配をして働いてくれる両親を見て、
「お金のことはもう心配しなくて大丈夫だよ」
と言ってあげられるように、夫の収入に依存せず私自身しっかり稼げるようになりたいと思いました。
なんとか第一子を迎えるまでに、在宅で収入を得られる基盤を作りたいと焦り、毎日転職サイトを見ていましたが、そんな仕事はなく落ち込む日々が続きました。
オンラインスクールとの出会いと妊娠・出産
そんな時、何気なく見ていたインスタでオンラインスクールの存在を知りました。
在宅ワークのスキルを身につけられると知ってすぐに入会。
そしてその後数ヶ月後に妊娠が発覚しました。
とても嬉しく、「出産までに在宅で稼げるスキルを身につける」と意気込んでいたのですが、つわりが重く寝たきりに。
「つわり いつ終わる」と何度検索したか分かりません。
結局出産まで長くつわりが続き、思うように活動することはできませんでした。
お腹の子を第一に「頑張ってはいけない」という状況が初めてで苦しかったのですが、とにかくこの子が元気に産まれてきてくれることを願って安静に生活をしていました。
やがて無事元気な男の子を出産。
生まれてきてくれた我が子は本当にかわいく、「この子が幸せな人生を歩んでほしい」という気持ちが溢れました。
産後直後からボロボロの体で始まる新生児育児。
2時間ごとに泣いてくる赤ちゃんのお世話に追われ、今が朝なのか夜なのかも分からなくなる生活でした。
「一度でいいから夜にまとまって6時間以上寝てみたい」と毎日思いながら、なんとか生活していました。
活動がストップしてしまっているスクールのことも気になりながら、パソコンを開く余裕は全くありませんでした。
2ヶ月の子どもがいても挑戦したい!
子どもが生後2ヶ月を迎えた頃、久しぶりにパソコンを開きました。
まだまだ慣れない育児に奮闘しながらも、つわりのない自分の体が嬉しくて仕方なかったです。
その時、スクールでwebマーケティングを学べる講座ができたことを知りました。
「これを身につければ、在宅で収入を得られるようになれるのかもしれない」
と思い、興味はあったものの、夫もすでに育休が明けていたため
「ワンオペで0歳児を育てている今の私には無理だ」
と最初は見向きもしませんでした。
「睡眠不足で目の前の育児に追われている自分」には関係のない、遠い世界の話のように感じたのです。
しかし、ふと「今は無理だ」と思ってしまった自分に対して、「じゃあ私はいつ始めるんだろう」と考えました。
「子どもにたくさんの経験をさせてあげたい」
「家で子どもと一緒に過ごしたい」
「旅行好きな両親をいろんな所へ連れて行ってあげたい」
「両親に安心して暮らしてもらいたい」
年々年老いていく両親と大きくなっていく我が子。
もし理想を叶えられなかったら、私は一生後悔すると思いました。
それを考えると「今しかない!」と思い、10ヶ月間のwebマーケティング講座に申し込みました。
おわりに
私の目標は在宅で1年後に月30万円、2年後に月50万円以上の収入を得ることです。
そして「子どもとの時間を大切にしながら、両親にも全力で恩返しをする」という理想の未来を手に入れることです。
この目標を、教師の経験しかない私が、さらに「ワンオペで0歳児を育てながら」
どのように達成するのか、私の成長記録をまた見に来てもらえると嬉しいです。